【雪燐】堕落論
- 2011/06/22 (Wed)
- 雪燐小説 |
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雪男が悪魔落ちしたらきっと兄さんにひどいことしてくれるんだろうと思って書いてみたんですけど、挫折。ひどいことにはひどいけど兄さんの受け止め方まじぱねぇ。受け止めきるところまで書ければよかったんですが。リベンジできれば書きたいんだけどなぁ。
R18ぎりぎりという感じなのでお気をつけを。
R18ぎりぎりという感じなのでお気をつけを。
最初に鏡の中にその鋭く尖った悪魔の証をみつけた時、意外なほど雪男は冷静だった。
そこにあったのは、驚きや悲しみではなく奇妙に生温い安堵感であったので、雪男はその時初めて、彼自身は否定し続け、だが周囲に危惧され続けた彼の悪魔落ちが己の定められた運命であることを悟ったのだった。
落ちてみれば、悪魔になるということは実に簡単なことであって、人間であったころと特に何がかわったわけでもない。普通に食べて寝て排出をする。それは兄を見ていて知っていたので改めて確認すべき事項ではない。ただ身のうちに絶えず沸き上がる高揚感は悪魔の力によって身体が活性化されているためだろう。祓魔師としての力も増強されている。だとしたら、悪魔落ちにあれほど抵抗する必要がどこにあったのかと雪男は過去の自分を振り返り嘲笑いたい気分になるのだった。
いずれにせよ、自分が手に入れたのは兄を守るための新たな力だった。それは歓迎すべきことであって忌避すべきものでは決してない。手に入れたからには有効活用してやろうというのが雪男の本音だった。
ただ、兄にだけはこの事実を知られてはいけないとも雪男は思った。明確な理由はない。なぜ、どうしてと問い詰められるのが面倒だったからかもしれない。ちらりと頭に兄の悲しむ顔が横切ったからかもしれない。
どちらにしても、自分は今まで通り、人として祓魔師として、奥村燐の弟として生きていく。それだけは雪男にとって譲りようのない絶対的な事実だった。
確かにそう誓ったはずだった。
あの日がやってくるまでは。
「雪男、お前最近どうしたんだよ」
普段のようにパソコンの前に座り仕事を続けている雪男の背中に、ここ最近ずっと何かを言いたそうに雪男をみていた燐がとうとう意を決したように尋ねた。
雪男が振り返ると、燐は不安そうに視線を泳がせている。尻尾が力なく床に落ち、時々ふるふると震えていた。
「どうしたってどういうこと?」
雪男は眼鏡を押し上げつつ抑揚のない声で答える。燐はますます眉を寄せて雪男に一歩近づいた。
「お前最近変だろ」
「どこが?僕としては極めて普段通りのつもりだけど。兄さんの気のせいじゃないの?」
「そういう言い方自体が変だってなんで気づかないんだよ。今日だってあんなこと」
燐は拳を握ってうつむいた。そこでようやく雪男は燐が今日の悪魔祓いについて文句を言いたいのだと気づいた。
「今日の任務が何か問題あるの?上級悪魔だったけどきちんと祓った。巻き込まれた人たちもみんな無事だった。問題ないじゃない?」
それは雪男についてきた燐もみていたはずだ。悪魔落ちしてからはワンランク上の悪魔でも比較的早く祓うことができるようになっている。誉められこそすれ文句を言われる筋合いはない。
「だって、お前・・・・・・あんな」
だが燐はどうしても納得がいかないらしい。昼間の情景を思い出しているのか目に涙を浮かべて燐は首をふった。
「何もあんな風なやり方しなくてもよかったじゃねーか。お前だったらあの悪魔一発で倒せたはずだろ。なのにあんないたぶるみたいに何発も、急所はずしてわざわざ苦しめるみたいに・・・・・・!」
燐は声を震わせ、喘ぐように言う。そんな燐をみて、雪男は内心ため息をついた。
兄にあれをみせたのは失敗だった。少なくとも最後の場面はみせるべきではなかった。確かにあの時、雪男は燐がいうように悪魔を殺すそのこと自体を楽しんでいたのだ。
悪魔祓いは狩りと似ている。相手が強ければ強いほど血が沸き立つ。そのことは燐自身も知っている感覚のはずだが燐はまるで自分が聖人君主であるかのように雪男をせめたてる。それが雪男の苛立ちをつのらせた。
「何?兄さんはあの悪魔が可哀想だったっていいたいの。だから僕が悪いって」
「ちげーよ!俺が言いたいのは…」
「ちがわないよ。兄さんは優しいからね。悪魔でも慈悲をかける。それとも悪魔だから?自分と同じだからそんなこと言うの」
「雪男・・・・・・」
燐は一瞬目を見開き、それから顔を歪めて雪男を睨んだ。
雪男は小さく舌打ちをする。失言だ。悪魔なのに、祓魔師として生きると決めた兄に言うべき言葉ではなかった。
だが、こんな言葉が漏れてしまうのも、結局は日ごろからそういう風に兄を見ているからなのだろうな、と雪男は思った。
悪魔であることを否定するのに、それを忌み嫌うかと思えば悪魔をかばうようなことを言ってみたり、では人であろうとするかといえば、人の輪に入ることを恐れ結局は交わりきれない。
どっちつかずに悪魔と人の間をさ迷う兄に雪男はどうしようもない苛立ちを覚える。片方の立場を完全に捨て去ってしまえば、どれほど生きやすかろう。その間で葛藤し苦しむ兄を見つづけるのはもう、限界だった。
「結局、兄さんは中途半端なんだよ。そんなんだといつか死ぬよ?」
何もかも投げ捨てたい衝動がわきあがり、雪男はそう吐き捨てた。
「雪男・・・・・・」
もう一度、名を呼ばれて燐と視線を合わせる。燐は今までにない雪男の心ない言葉にひどく痛めつけられた様子で、力なく首を振った。
「お前、なんなの」
うつむき漏れ出た声は震えていた。
「なんなんだよ、ホント。どうしちゃったんだよ。いつもの、真面目で誠実で優しくて、俺の、俺のたった一人の弟はどこいっちゃったんだよ」
それは昔なつかしい表情だった。今にも泣き出しそうな、世の中の理不尽に立ち向かう力もなく、無力な自分を嘆き悲しむ時の表情。自分も幼い頃はよくそんな顔をしていた。
そんな自分を助けに来てくれるのはいつも兄だった。この兄の笑顔が自分を救ってくれていた。だから、雪男はその兄のために、ただ泣き暮らすだけの弱い自分を捨てたのだ。
そう。あの、父に誘われ祓魔師として兄を守る人生を選び取ったあの日、雪男は弱いけれど、だからこそ柔らかで様々なものを感じ取り受け止めることができた、そんな自分を捨てたのだ。
「なに、それ。誰のこといってるの」
腹の底にどろどろとしたどす黒いものが渦巻いている。それが全身にじわじわ行き渡っていき、自らが別のものに染め替えられていくように雪男は感じた。
「僕が真面目で誠実で優しいって、本当にそんな風に思ってるの?ただそれだけだって?じゃあ、今のこの僕はなんなの。こうやって、兄さんにいらついて、殴りつけたいくらい腹を立てて、そして――」
雪男は立ち尽くす燐に一歩近づく。燐は得体の知れないものをみたように怯えた顔で身を引くが、雪男は燐の腕を掴み強引に引き寄せて胸倉を掴んだ。息のかかる距離にある雪男の顔を凝視する燐に、雪男は唇をめくり上げて笑った。そこには醜く尖った悪魔の牙があった。
「そして、兄さんを犯して、喰らいつきたいと思っている今の僕は――」
「ゆきっ、んっ――」
悲鳴のような声を漏らした口を雪男は唇で覆った。呼吸さえ封じこめてしまおうかというやり方で、燐の抵抗を奪う。兄の小さな頭を手で掴み固定をすると、口腔内で泳ぐ燐の舌を追った。
唾液が口の端から流れ落ちる。それを一滴も逃すまいと舌で舐めとり、自分のものと合わせた唾液を燐の口へと流し込む。体液の交換は恐ろしいほどの陶酔を雪男に与え、雪男は衝動のおもむくまま、燐の唇に尖った犬歯を突きたてた。
「――ッ」
燐の唇が切れて赤い血があふれ出る。それをすべて啜ってしまいたい欲求に駆られ舌を伸ばしたとき、左頬に鋭い痛みが走った。
「やめろっ!」
手加減なく、燐が雪男の頬を張ったのだ。雪男は熱を持った頬に手を当てたまま、燐を見た。顔を青ざめさせ、怒りなのか悲しみなのかわからない複雑な表情を浮かべた兄は口元を血で真っ赤に染めながら、唇をかみ締めていた。
だが、燐が雪男の横暴に怒りの視線を向けていたのは一瞬だった。次の瞬間には燐はからくり人形のようなぎこちない動きで、自分の口元を拭い、その手についた赤い血に視線を移した。赤い手と燐の血がついた雪男の赤い唇を交互にみて、ああ、と絶望に彩られた声を吐き出した。
「ゆ、きお・・・・・・お前・・・・・・」
燐は泣き出しそうな顔で、雪男をみつめる。認めたくないという思いとそうでしかありえないという現実の狭間で葛藤しているのがよくわかった。
「なぁ、雪男、お前・・・・・・本当に?」
先ほどは逃れるために自分で叩いたはずの雪男の頬に手を伸ばす。赤くなった頬に柔らかく触れ、悼むように指を動かす。
「あ・・・悪魔に・・・・・・なっちまった、の?」
小さな子どもが質問するように舌足らずな声で、燐は恐る恐る雪男へ尋ねる。その答えを雪男は燐の腕を取ることで答えた。
伸ばされた腕を取り、そのまま勢いよく床に転がした。ぐっと燐がうめきを上げるのもかまわずに身体に乗り上げて動きを封じると、シャツを破り捨てる。
「雪男!」
もがく燐の頬を、激しい音を立てて叩く。力はいれていなかったが、その行為自体にショックをうけたように燐が黙る。抵抗がやんだ隙にベルトのバックルを引きちぎるようにはずし、制服の下を乱暴に脱がせた。
人から衣服を剥ぎ取られるという行為がどのような恐怖をもたらすのかということを、雪男は兄を観察しながら十分理解した。大した暴力もなしに、こんなにも大人しくなるとは。それとも、燐が怯えているのはこの行為自体にではなく、まるで憑かれたように燐を裸に剥く弟の仮面を被った悪魔そのものになのだろうか。
「ゆきお・・・・・・ゆき・・・・・・お、ゆき・・・」
救いを求めるように、慈悲を乞うように名前を呼ばれる。それがひどく気持ちいい。永遠にこの声で兄に呼びつづけてもらえるなら、魂を悪魔に売り飛ばしてもかまわない。いや、自分はすでに悪魔なのだ。ならば、その望みだって不可能ではないはず。
自分で暴いた兄の裸体に気がふれそうになるほど興奮した。兄の裸など見慣れているはずなのに、やはり目的が違うからなのか。今から犯そうとしている身体に対する欲情がそうさせるのか。それをいったら、今までだって、兄の裸を見るときに果たしてそのような目で兄を見ていなかったのかといえば、あやしいところだ。本当は穏やかに冷静に兄を見る視線の裏ではいつもこの日を夢見ていたのかもしれないのだ。
「兄さん」
身を覆うものをすべて剥ぎ取られて、身の置き所がないように身体を縮ませている兄の名を呼んだ。気まぐれだった。圧倒的な優位を誇る強者が弱者に与えた一握りの慈悲だ。
燐はびくりと身体を揺らして雪男を見上げた。そこに怯えと、そしてどこか媚びるような色が混じる。ぞくりと背筋が粟立って、雪男は舌なめずりをした。
「兄さん、これが僕だよ。これが、本当の僕だ」
宣言するように、雪男は言った。兄の理想としていた弟像を打ち破ってやったという卑屈な爽快感があった。
「これが・・・・・・お前の、望んだこと?」
「そうだよ、ずっと、こうしたかったんだ。兄さんに、ひどいことをしたかった」
兄が泣き、顔を歪め、絶望するところ。それが見たかった。
養父が死んだときも、仲間に悪魔であることがバレた時も、ほとんど檻の中の猛獣同然の扱いを受けつづけても、兄は本当の意味で絶望したことはなかった。誰も、兄を左右することはできない。支配することもできない。
自分はこんなにも簡単に、兄のために泣き、絶望することができるのに。
「そのために・・・・・・お前は、悪魔に・・・なったの、か?」
「そうだよ」
「こんなことの・・・・・・ために?」
「こんなこと、じゃないよ。これが、僕にとってのすべてだ」
燐は目を見開いて、雪男を見た。瞳の奥の青い炎がちろちろと揺れる。美しい炎だ。人々が忌み嫌うこの炎に焼かれてしまいたいと雪男はいつも夢をみていた。
「ゆきお・・・・・・ゆきお・・・・・・」
燐が再び雪男の名前を呼んだ。名前を呼ぶしか方法をしらないようだった。
「ゆきお・・・・・・ごめんな」
燐が手を伸ばして雪男に抱きつく。肩口が冷たい。燐は声を押し殺して泣いていた。
「ごめん・・・・・・俺・・・ごめん」
「なに、あやまるの、兄さん」
雪男は動揺した。違う。別にあやまられたかったわけじゃない。雪男は燐を傷つけたかっただけだ。心も身体も、一生残るような、誰にもつけられないような傷を残したかっただけだ。
「俺は・・・・・・なんにも、知らずにいて。お前が、そんな風に思ってるの、しらない、で」
ひくり、と燐の喉がなったのを耳元で聞く。雪男は心臓が強く掴まれるような痛みを覚える。いいや、違うともう一度雪男は自分に言い聞かせる。自分は兄を傷つけたいのだ。
「しらないで、生きてきたんだ。お前のこと、俺は一番ちかくにいて、一番しってると思って、だから、あたりまえだと思ってて」
ああ、と燐は両手で顔を覆う。その顔にキスをしたい衝動を雪男は止められず、燐の手の上に唇を寄せた。
「たいせつだから、お前を、お前が・・・・・・」
雪男は我慢ならなくなって、燐の両手をはずさせると、唇を覆った。舌を絡め、音を立てて貪るようにキスをする。
息が苦しくなって顔を上げると、燐の泣きはらしたひどい顔がそこにあった。赤く充血した目をひたりとこちらに向け、燐は聞いてくる。
「なぁ、お前、俺にひどいこと、したいの?」
無垢な子どもの目が雪男を射抜く。雪男が息を呑むと、燐はさらに言葉を紡ぐ。
「俺に、もっと、こんなんじゃ足りないくらいひどいこと、したいの」
ふっと、先ほどの汚れをしらない瞳が翳る。一瞬伏せた瞼の裏で燐の青い炎が熱を上げていく。それは燐の身を覆い尽くすように、否、人の皮を脱ぎ捨てて本来の姿に戻っていくように、実に鮮やかな身の変わりようだった。
「それなら・・・・・・なぁ、しろよ、もっと、ひどいこと。もっと・・・・・・いっぱい」
悪魔に魅入られるということはこういうことか、と雪男は早鐘を打つ心臓を抑えながら顔を歪めた。ずるずると、地の底までひきずりおろされるような感覚をなんといったらよいのだろう。もうすでに堕ちるだけ堕ちきった自分が恐れるものは何もないはずなのに。
「いいの、兄さん。僕は兄さんにひどいことするんだよ?」
「いいよ。だって、これ以上ひどいことなんて、もうなにもないだろ?」
――お前が悪魔になったこと以上にひどい皮肉なんて、もう、どこにもない。
諦めきったように、小さく笑った燐の微笑はどこまでも儚くて、そして、悲しみに満ちていたので、ああ、僕はこれがみたかったのかと雪男は思い、自分が傷つけた最愛の悪魔を強く抱きしめたのだった。
そこにあったのは、驚きや悲しみではなく奇妙に生温い安堵感であったので、雪男はその時初めて、彼自身は否定し続け、だが周囲に危惧され続けた彼の悪魔落ちが己の定められた運命であることを悟ったのだった。
落ちてみれば、悪魔になるということは実に簡単なことであって、人間であったころと特に何がかわったわけでもない。普通に食べて寝て排出をする。それは兄を見ていて知っていたので改めて確認すべき事項ではない。ただ身のうちに絶えず沸き上がる高揚感は悪魔の力によって身体が活性化されているためだろう。祓魔師としての力も増強されている。だとしたら、悪魔落ちにあれほど抵抗する必要がどこにあったのかと雪男は過去の自分を振り返り嘲笑いたい気分になるのだった。
いずれにせよ、自分が手に入れたのは兄を守るための新たな力だった。それは歓迎すべきことであって忌避すべきものでは決してない。手に入れたからには有効活用してやろうというのが雪男の本音だった。
ただ、兄にだけはこの事実を知られてはいけないとも雪男は思った。明確な理由はない。なぜ、どうしてと問い詰められるのが面倒だったからかもしれない。ちらりと頭に兄の悲しむ顔が横切ったからかもしれない。
どちらにしても、自分は今まで通り、人として祓魔師として、奥村燐の弟として生きていく。それだけは雪男にとって譲りようのない絶対的な事実だった。
確かにそう誓ったはずだった。
あの日がやってくるまでは。
「雪男、お前最近どうしたんだよ」
普段のようにパソコンの前に座り仕事を続けている雪男の背中に、ここ最近ずっと何かを言いたそうに雪男をみていた燐がとうとう意を決したように尋ねた。
雪男が振り返ると、燐は不安そうに視線を泳がせている。尻尾が力なく床に落ち、時々ふるふると震えていた。
「どうしたってどういうこと?」
雪男は眼鏡を押し上げつつ抑揚のない声で答える。燐はますます眉を寄せて雪男に一歩近づいた。
「お前最近変だろ」
「どこが?僕としては極めて普段通りのつもりだけど。兄さんの気のせいじゃないの?」
「そういう言い方自体が変だってなんで気づかないんだよ。今日だってあんなこと」
燐は拳を握ってうつむいた。そこでようやく雪男は燐が今日の悪魔祓いについて文句を言いたいのだと気づいた。
「今日の任務が何か問題あるの?上級悪魔だったけどきちんと祓った。巻き込まれた人たちもみんな無事だった。問題ないじゃない?」
それは雪男についてきた燐もみていたはずだ。悪魔落ちしてからはワンランク上の悪魔でも比較的早く祓うことができるようになっている。誉められこそすれ文句を言われる筋合いはない。
「だって、お前・・・・・・あんな」
だが燐はどうしても納得がいかないらしい。昼間の情景を思い出しているのか目に涙を浮かべて燐は首をふった。
「何もあんな風なやり方しなくてもよかったじゃねーか。お前だったらあの悪魔一発で倒せたはずだろ。なのにあんないたぶるみたいに何発も、急所はずしてわざわざ苦しめるみたいに・・・・・・!」
燐は声を震わせ、喘ぐように言う。そんな燐をみて、雪男は内心ため息をついた。
兄にあれをみせたのは失敗だった。少なくとも最後の場面はみせるべきではなかった。確かにあの時、雪男は燐がいうように悪魔を殺すそのこと自体を楽しんでいたのだ。
悪魔祓いは狩りと似ている。相手が強ければ強いほど血が沸き立つ。そのことは燐自身も知っている感覚のはずだが燐はまるで自分が聖人君主であるかのように雪男をせめたてる。それが雪男の苛立ちをつのらせた。
「何?兄さんはあの悪魔が可哀想だったっていいたいの。だから僕が悪いって」
「ちげーよ!俺が言いたいのは…」
「ちがわないよ。兄さんは優しいからね。悪魔でも慈悲をかける。それとも悪魔だから?自分と同じだからそんなこと言うの」
「雪男・・・・・・」
燐は一瞬目を見開き、それから顔を歪めて雪男を睨んだ。
雪男は小さく舌打ちをする。失言だ。悪魔なのに、祓魔師として生きると決めた兄に言うべき言葉ではなかった。
だが、こんな言葉が漏れてしまうのも、結局は日ごろからそういう風に兄を見ているからなのだろうな、と雪男は思った。
悪魔であることを否定するのに、それを忌み嫌うかと思えば悪魔をかばうようなことを言ってみたり、では人であろうとするかといえば、人の輪に入ることを恐れ結局は交わりきれない。
どっちつかずに悪魔と人の間をさ迷う兄に雪男はどうしようもない苛立ちを覚える。片方の立場を完全に捨て去ってしまえば、どれほど生きやすかろう。その間で葛藤し苦しむ兄を見つづけるのはもう、限界だった。
「結局、兄さんは中途半端なんだよ。そんなんだといつか死ぬよ?」
何もかも投げ捨てたい衝動がわきあがり、雪男はそう吐き捨てた。
「雪男・・・・・・」
もう一度、名を呼ばれて燐と視線を合わせる。燐は今までにない雪男の心ない言葉にひどく痛めつけられた様子で、力なく首を振った。
「お前、なんなの」
うつむき漏れ出た声は震えていた。
「なんなんだよ、ホント。どうしちゃったんだよ。いつもの、真面目で誠実で優しくて、俺の、俺のたった一人の弟はどこいっちゃったんだよ」
それは昔なつかしい表情だった。今にも泣き出しそうな、世の中の理不尽に立ち向かう力もなく、無力な自分を嘆き悲しむ時の表情。自分も幼い頃はよくそんな顔をしていた。
そんな自分を助けに来てくれるのはいつも兄だった。この兄の笑顔が自分を救ってくれていた。だから、雪男はその兄のために、ただ泣き暮らすだけの弱い自分を捨てたのだ。
そう。あの、父に誘われ祓魔師として兄を守る人生を選び取ったあの日、雪男は弱いけれど、だからこそ柔らかで様々なものを感じ取り受け止めることができた、そんな自分を捨てたのだ。
「なに、それ。誰のこといってるの」
腹の底にどろどろとしたどす黒いものが渦巻いている。それが全身にじわじわ行き渡っていき、自らが別のものに染め替えられていくように雪男は感じた。
「僕が真面目で誠実で優しいって、本当にそんな風に思ってるの?ただそれだけだって?じゃあ、今のこの僕はなんなの。こうやって、兄さんにいらついて、殴りつけたいくらい腹を立てて、そして――」
雪男は立ち尽くす燐に一歩近づく。燐は得体の知れないものをみたように怯えた顔で身を引くが、雪男は燐の腕を掴み強引に引き寄せて胸倉を掴んだ。息のかかる距離にある雪男の顔を凝視する燐に、雪男は唇をめくり上げて笑った。そこには醜く尖った悪魔の牙があった。
「そして、兄さんを犯して、喰らいつきたいと思っている今の僕は――」
「ゆきっ、んっ――」
悲鳴のような声を漏らした口を雪男は唇で覆った。呼吸さえ封じこめてしまおうかというやり方で、燐の抵抗を奪う。兄の小さな頭を手で掴み固定をすると、口腔内で泳ぐ燐の舌を追った。
唾液が口の端から流れ落ちる。それを一滴も逃すまいと舌で舐めとり、自分のものと合わせた唾液を燐の口へと流し込む。体液の交換は恐ろしいほどの陶酔を雪男に与え、雪男は衝動のおもむくまま、燐の唇に尖った犬歯を突きたてた。
「――ッ」
燐の唇が切れて赤い血があふれ出る。それをすべて啜ってしまいたい欲求に駆られ舌を伸ばしたとき、左頬に鋭い痛みが走った。
「やめろっ!」
手加減なく、燐が雪男の頬を張ったのだ。雪男は熱を持った頬に手を当てたまま、燐を見た。顔を青ざめさせ、怒りなのか悲しみなのかわからない複雑な表情を浮かべた兄は口元を血で真っ赤に染めながら、唇をかみ締めていた。
だが、燐が雪男の横暴に怒りの視線を向けていたのは一瞬だった。次の瞬間には燐はからくり人形のようなぎこちない動きで、自分の口元を拭い、その手についた赤い血に視線を移した。赤い手と燐の血がついた雪男の赤い唇を交互にみて、ああ、と絶望に彩られた声を吐き出した。
「ゆ、きお・・・・・・お前・・・・・・」
燐は泣き出しそうな顔で、雪男をみつめる。認めたくないという思いとそうでしかありえないという現実の狭間で葛藤しているのがよくわかった。
「なぁ、雪男、お前・・・・・・本当に?」
先ほどは逃れるために自分で叩いたはずの雪男の頬に手を伸ばす。赤くなった頬に柔らかく触れ、悼むように指を動かす。
「あ・・・悪魔に・・・・・・なっちまった、の?」
小さな子どもが質問するように舌足らずな声で、燐は恐る恐る雪男へ尋ねる。その答えを雪男は燐の腕を取ることで答えた。
伸ばされた腕を取り、そのまま勢いよく床に転がした。ぐっと燐がうめきを上げるのもかまわずに身体に乗り上げて動きを封じると、シャツを破り捨てる。
「雪男!」
もがく燐の頬を、激しい音を立てて叩く。力はいれていなかったが、その行為自体にショックをうけたように燐が黙る。抵抗がやんだ隙にベルトのバックルを引きちぎるようにはずし、制服の下を乱暴に脱がせた。
人から衣服を剥ぎ取られるという行為がどのような恐怖をもたらすのかということを、雪男は兄を観察しながら十分理解した。大した暴力もなしに、こんなにも大人しくなるとは。それとも、燐が怯えているのはこの行為自体にではなく、まるで憑かれたように燐を裸に剥く弟の仮面を被った悪魔そのものになのだろうか。
「ゆきお・・・・・・ゆき・・・・・・お、ゆき・・・」
救いを求めるように、慈悲を乞うように名前を呼ばれる。それがひどく気持ちいい。永遠にこの声で兄に呼びつづけてもらえるなら、魂を悪魔に売り飛ばしてもかまわない。いや、自分はすでに悪魔なのだ。ならば、その望みだって不可能ではないはず。
自分で暴いた兄の裸体に気がふれそうになるほど興奮した。兄の裸など見慣れているはずなのに、やはり目的が違うからなのか。今から犯そうとしている身体に対する欲情がそうさせるのか。それをいったら、今までだって、兄の裸を見るときに果たしてそのような目で兄を見ていなかったのかといえば、あやしいところだ。本当は穏やかに冷静に兄を見る視線の裏ではいつもこの日を夢見ていたのかもしれないのだ。
「兄さん」
身を覆うものをすべて剥ぎ取られて、身の置き所がないように身体を縮ませている兄の名を呼んだ。気まぐれだった。圧倒的な優位を誇る強者が弱者に与えた一握りの慈悲だ。
燐はびくりと身体を揺らして雪男を見上げた。そこに怯えと、そしてどこか媚びるような色が混じる。ぞくりと背筋が粟立って、雪男は舌なめずりをした。
「兄さん、これが僕だよ。これが、本当の僕だ」
宣言するように、雪男は言った。兄の理想としていた弟像を打ち破ってやったという卑屈な爽快感があった。
「これが・・・・・・お前の、望んだこと?」
「そうだよ、ずっと、こうしたかったんだ。兄さんに、ひどいことをしたかった」
兄が泣き、顔を歪め、絶望するところ。それが見たかった。
養父が死んだときも、仲間に悪魔であることがバレた時も、ほとんど檻の中の猛獣同然の扱いを受けつづけても、兄は本当の意味で絶望したことはなかった。誰も、兄を左右することはできない。支配することもできない。
自分はこんなにも簡単に、兄のために泣き、絶望することができるのに。
「そのために・・・・・・お前は、悪魔に・・・なったの、か?」
「そうだよ」
「こんなことの・・・・・・ために?」
「こんなこと、じゃないよ。これが、僕にとってのすべてだ」
燐は目を見開いて、雪男を見た。瞳の奥の青い炎がちろちろと揺れる。美しい炎だ。人々が忌み嫌うこの炎に焼かれてしまいたいと雪男はいつも夢をみていた。
「ゆきお・・・・・・ゆきお・・・・・・」
燐が再び雪男の名前を呼んだ。名前を呼ぶしか方法をしらないようだった。
「ゆきお・・・・・・ごめんな」
燐が手を伸ばして雪男に抱きつく。肩口が冷たい。燐は声を押し殺して泣いていた。
「ごめん・・・・・・俺・・・ごめん」
「なに、あやまるの、兄さん」
雪男は動揺した。違う。別にあやまられたかったわけじゃない。雪男は燐を傷つけたかっただけだ。心も身体も、一生残るような、誰にもつけられないような傷を残したかっただけだ。
「俺は・・・・・・なんにも、知らずにいて。お前が、そんな風に思ってるの、しらない、で」
ひくり、と燐の喉がなったのを耳元で聞く。雪男は心臓が強く掴まれるような痛みを覚える。いいや、違うともう一度雪男は自分に言い聞かせる。自分は兄を傷つけたいのだ。
「しらないで、生きてきたんだ。お前のこと、俺は一番ちかくにいて、一番しってると思って、だから、あたりまえだと思ってて」
ああ、と燐は両手で顔を覆う。その顔にキスをしたい衝動を雪男は止められず、燐の手の上に唇を寄せた。
「たいせつだから、お前を、お前が・・・・・・」
雪男は我慢ならなくなって、燐の両手をはずさせると、唇を覆った。舌を絡め、音を立てて貪るようにキスをする。
息が苦しくなって顔を上げると、燐の泣きはらしたひどい顔がそこにあった。赤く充血した目をひたりとこちらに向け、燐は聞いてくる。
「なぁ、お前、俺にひどいこと、したいの?」
無垢な子どもの目が雪男を射抜く。雪男が息を呑むと、燐はさらに言葉を紡ぐ。
「俺に、もっと、こんなんじゃ足りないくらいひどいこと、したいの」
ふっと、先ほどの汚れをしらない瞳が翳る。一瞬伏せた瞼の裏で燐の青い炎が熱を上げていく。それは燐の身を覆い尽くすように、否、人の皮を脱ぎ捨てて本来の姿に戻っていくように、実に鮮やかな身の変わりようだった。
「それなら・・・・・・なぁ、しろよ、もっと、ひどいこと。もっと・・・・・・いっぱい」
悪魔に魅入られるということはこういうことか、と雪男は早鐘を打つ心臓を抑えながら顔を歪めた。ずるずると、地の底までひきずりおろされるような感覚をなんといったらよいのだろう。もうすでに堕ちるだけ堕ちきった自分が恐れるものは何もないはずなのに。
「いいの、兄さん。僕は兄さんにひどいことするんだよ?」
「いいよ。だって、これ以上ひどいことなんて、もうなにもないだろ?」
――お前が悪魔になったこと以上にひどい皮肉なんて、もう、どこにもない。
諦めきったように、小さく笑った燐の微笑はどこまでも儚くて、そして、悲しみに満ちていたので、ああ、僕はこれがみたかったのかと雪男は思い、自分が傷つけた最愛の悪魔を強く抱きしめたのだった。
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